魂を生きるエッセイ

新月の夜。

 

 

ただ、触れ合うだけ

 

 

昨夜、22時には消灯して、午前1時くらいまで

布団の中で2人で色々話していた。 

 

その間ずっと、マグワイヤーは私の体を時には撫でて

時には揉みほぐしてくれていた。

 

私も、彼の背中を撫で、

足をさすり、

腕や頬に口づけをする。

 

3時間の間、リアルまぐまぐもあったけれど

一緒に「命」を考える動画を観て

2人で自分たちの生き方や、見送り方を話し合ったりもした。

 

その中で、私たちが伝えたいこと

私たちが確認したいことをずっと聞きあった。

 

彼は今、外に目を向けるよりも、

私と向き合っていることを一番にしたいと言っていた。

 

私がやりたいことを叶えるために

私を観ていたいらしい。

 

私は、だんだん自分の求められているものが揃い始めてきたので

「やりたいこと」は「求められていることを叶えること」になっていると理解して、

それをなんとか彼に伝えた。

 

スマホを見ることもなく

音もなく

ただお互いの肌の温もりを感じ

相手の冷たいところ

固いところを撫であっていた夜。

 

満ち足りていた。

 

もう何もなかったし、

必要とするものは「頭の中にしか」なかった。

 

頭を使わない限り

もう、欠けているものは私たちにはなかった。

 

もう、すでにそこにいた2人。

 

 

今朝も、穏やかに目が覚めて

落ち着いてコーヒーを飲んでいる。

 

30代や40代の若く、血氣盛んな男女が

こんな風に落ち着いていていいのか?


そんなことをしている場合ではない!そう思うかもしれない。

 

そんな領域には

年老いた2人が「たどり着く」ものだと思っていた。

 

だけど、実は違っていて、

いつでもこの領域を

年齢関係なく「味わうトキ」があっていいのだということを

私はつたえたいな、と思っている。

 

あくせく働かなくていい。

身を粉にして生きなくていい。

 

そう許可しながら

もし自分が明日死ぬとわかったら

今この瞬間やっていることを

私は本当に「やる」だろうか?


 

 

今日はそんな意識で

1日過ごしたいと思っている朝。



パートナーシップを探究するって
実は究極に近いほどの【自分の魂磨き】だということを
実はあまり知られていない。

どんなところが魂を磨くことになるのか?


そもそもパートナーシップって?

パートナーってパート(部分)を担当するって意味だったりして
どちらかというとビジネス的な用語から来ているらしい。

でも、考えたらパートって全体性の中の部分なので、パートナーって【自分の一部】という事が言える。

私はパートナーというより【伴侶】という言葉を好んで使う。

伴侶とは文字通り
「人の半分」と「人の呂」。

呂とは背骨をの象形文字。

背骨のように芯なる大切な半分の人。

私にとって伴侶(パートナー)とは核になる自分の分身と思っている。
 
 
伴侶とは『本当の自分』を明らかにする存在

伴侶が私を怒らせる。

怒りたかったんだ。私が。
だから、伴侶が怒らせてくれた。

怒らないといけないようなことをしたと思っていたんだ。私。
だから、伴侶が代わりに怒ってくれた。

罰せられないといけないと責めてたんだ自分を。
だから、伴侶が責めて来た。
 
 
こんな風に、伴侶=自分と考えたとき、

「うそだ!私はこんな人間じゃない!」
「こんな風に(自分を)思ってない!」

と考えても、実は全て自分の内側の投影だと氣づいたときに、ものすごい格闘と葛藤のあと、本当の本当の自分に氣づき、魂は格段に成長する。

葛藤するほど
格闘するほど
もがくほど

実は【魂の成長にとって最良】の相手だと氣がつくから、伴侶の存在そのものに感謝が生まれ、そして、愛おしくなる。


エゴを満たす人は都合の良い人であり、魂の相性として良い人ではない。


伴侶は一番言われたくないことを言う。

伴侶は一番見たくないものを見せる。

伴侶は一番嫌いなことをやる。

伴侶は一番理解できないことをする。

伴侶は意味のわからないことを考えつく。

 
男と女。
凸と凹。
陰と陽。


真逆なのに二つでしか、一つになれない。

なぜに正反対の『性』が惹かれ合うのか?

それは【見えないところを見せてくれる鏡】だからだ。

女性の中にも男性の「性(さが)」をもち、男性も逆に女性の「性」を持つ。

自分の中の見えない部分を【目の前に】見せる存在。

それは伴侶。

自分が
一番嫌っていた自分。
一番苦手な自分。
一番理解できない自分。
一番後回しにしてきた自分の何か。

それを切り裂く刃物のように「スパッ」と見せてくれるからこそ、エゴは『本当の伴侶』を避ける。

氣もち良いことしか言わない人を近づけ

優しいことしかしない人を重宝し、

なんでもいいよ、いいよ、と(ある意味無責任)言ってくれる人が自分にとって『良い人』と勘違いして、
良い人扱いしていくとこで、自分のエゴをどんどんと膨らますことになる…。

 
本物の魂を磨いてくれる人は、決して『耳障りのいいこと』しか言わない人ではないのです。



本当の至福を感じる相手こそ伴侶。

前記のように、魂とは決して、『楽』『軽い』『柔らかい』『良いこと』『正義』だけを求めてはいない。

楽の裏には苦があり、
軽さの裏には重さがあり、
柔らかなことの裏には硬さもあり、
良いことの裏には悪いこともあり、
正義の裏には悪がある。


魂はどちらを感じているということは
同じだけ反対側も感じる【キャパシティ】を見せてくる。

人生は、表裏一体、陰陽二相一対。
清濁あわせ飲む。

これから逃げられはしない。

だからこそ、本物の至福とは、
例え、重く、苦しく、辛く、硬く、苦いことがあっても、自分と信頼して笑って生きられることができる状態を至福と呼びたい。

至福を【共に】感じることができる相手こそ、伴侶であり、
ギリギリにきついことがあっても、2人で笑って切り抜けられる相手が伴侶。


そんな伴侶に出会うためには、本当の本当の自分に出会わない限り、そんな伴侶とは出会わないし、引き寄せない。

もし、いまパートナーがいて、共にパートナーシップを探究したいのならば、【パートナーを通じて幸せになる!】と決めない限り、目の前に、共に魂の成長をしてくれる伴侶とは出会わないだろう。

パートナーを通じて幸せになる!と決めて、毎日を過ごしていると、不思議と【本当の自分】にしか出会わなくなる。

本当の自分で生きる連続の先に、現れた人が伴侶(または伴侶となるべく成長し)になる。

だけど一つだけ。
本当の本当の自分を生きる連続の先に、もしかすると『私にはパートナーは必要がない』とたどり着くこともある。


伴侶がいることが良いのでもなく、いないことが悪いことでもない。

どこまで行っても、本当の本当の自分を生きることが魂の目的なのだから。


新しい幸せに目覚めるとは?

幸せって実は、いま思っているほどに、軽いものじゃない。

もっともっと、深くて、大きくて、何より至福な選択もある。

それを体感して味わえるのは実は『パートナーシップの探究』にある。


あなたがもし、本当の本当を生きたいのならば、パートナーシップを探究してみてほしい…。

それこそが魂を磨く一番の近道だから。


パートナーシップの深くて、安心と安全と至福に繋がる愛の話。

まぐわい(愛の溢れるセックス)の学びとともに魂の琴線に触れながらお伝えするお話し会。

7月11日土曜日開催します。

今回はオンラインでの参加やライブ中継する動画の視聴(1週間限定)もできます。

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あなたに愛を感じてもらえるお手伝いをさせていただきます。
数日前、私が作業に夢中になりすぎて4時間あまり同じ体制でパソコンに向かっていたら、翌朝、肩と腕と首が固まって痛くて動かせなくなっていた。


もともと五十肩が治りかけていたところに、おばかなことをしてしまったために、またぶり返したような。
 
でも、その日、午後から春日大社にいった帰り道、マグワイヤーが背中を「シュ!」って祓ってくれた。
 
さて、家に帰ってゴロンと横になったら..


動かしたら激痛になった体制に変えても痛みが激減していて、
「おお!すごい!マグワイヤー!さすが癒しの男。」
と感激した。



そんなことがあった、翌朝起きた途端に、また少し痛みがぶり返っていたのを感じた。


同じ体勢で寝ていたからだだろう。
また固まったみたい。 
それをマグワイヤーに伝えると、半分寝てるようで起きている彼が、半覚半眠状態で、ずっと肩や背中を撫でてくれた。 


ツボを押すとか、経絡がどうとか、そんなのは飛び越えて、ただただ撫でてくれただけ。 


それに気持ちよくなった私はマグワイヤーにぎゅっと抱きついて、私も彼の背中を撫でていた。 


そんな時間を20〜30分ほどだろうか過ごしたら、痛みもほとんど感じにくい状態になり、何よりも、深い息ができるようになっていることに氣がついた。


深い息ができる。


安心できている状態。


不安だと、緊張していると体が固まり、息は浅くなる。 


息が深く吸えて、伴侶(誰か)の温もりを感じていると、自分が安全であることが体でわかる。


癒しって、実は、安心してここにいて良いという安全なエネルギー状態。


本来の自分のままでいられるエネルギーの循環。 


そのためには息を吐き切る…伝えきることが大切になる。
 
さて、私たちはいつも安心で安全か? 

時々そうならない時もある。

それは必ずと言っていいほどに、私か彼のどちらか、もしくは両方が【思考にハマった】時だ。 

魂ではなく、真心でもない、思考パターンという思い込みや、誤解からくる妄想(要はコミュニケーションの不足)で覆われているとき。

普段、思ったことを口にする2人だから、一度喧嘩になると、すごいことになる時もある。 

相手の言うことを拒否し、
思い込みや妄想で相手を批判し、
自分たちがやった間違いを弁解し、
相手を傷つけ侮辱する。

特に最後の「侮辱」は変にプライドの高い人だったら、核爆発レベルになるような言葉をぶつける時がある。 

拒否も、批判も、言い訳も、侮辱も、本当に大切な人にされたら..... 

きつい。
たまらなく、痛い。
強烈に辛い。 

でも、喧嘩して、感情というものに身を任せていたら、止まらなくなり、相手を(もしくは自分を)ものすごい勢いとパワーで攻撃する。  

その時に、絶対やらねばならないことがある。 

目を見て「ごめんなさい、言いすぎた。」と伝えることだ。 

冷静になってから謝ろう、では絶対に遅い。 

時間が空くほどに深い傷を浴びせたことが残っていくから。

例えば、事故を起こして怪我をして首の近くを出血しているとしよう。

すると、すぐに手当てをしてもらう必要がある。
そこはわかるはず。
首に近いところを怪我したのだから、万一を考えたら、必ず即、手当てする必要はあることくらいわかる。


この場合の、2人の手当てとは

【目を見て心から「ごめんね」と謝る 】こと。

もしこの手当てをしないまま、出血を無視して、そのまま日常を過ごしたら、後になって深い後遺症になるか、下手すると命取り(別れ)になる。 

人間だから、感情的になることもある。 
多くの場合女性が感情的(熱く)になり、男性が論理的(冷たく)なりやすいけれど、逆の場合ももちろんある。

でもそのパターンで男性が論理から感情的になった瞬間、強い怒りが止まらず周りを巻き込むことも多いけどね。
 
 
どんな時でも、それでも侮辱や批判や、弁解や拒否をされた方は、言われて辛くて悲しい。

その悲しみや怒りだけに心をまかせるのではなく、【相手の自分に言う言葉とは自分の内側にある自分への言葉】ということを理解していれば、
伴侶の放った怒りにい反応しすぎずに、一度咀嚼して聞いてから、相手を受け入れる「最後の勇氣」を持つことができる。

ただ、今回、一番伝えたいのは、言いすぎたと思う伴侶の方に伝えたい。

プライドや思い込みによって、伴侶に甘え、言い過ぎたり、拒否したり、決めつけたり、侮辱してしまったら
【素直に】【すぐに】謝ること。 

一度放った言葉は2度と戻らない。 

相手は自分なのです。

放った言葉は後で必ず自分に返ってくる。

最悪、そんなつもりがないのに、相手(伴侶)が去ってしまった後の自分を考えてみて? 

後悔。

これが必ず残る。

後悔の残る別れほど後に引きずるものはない。

本当にそれでいいの? 

相手がもし死んだら?
 
私は両親を通して、男女の切ない思いを魂の奥底の部分で知っている。 

感情に流されて、煽られて関係性を終わるのではなく、深いところで繋がっている関係性を作るために大切なこと。 

それはプライドを捨てるということ。 

そのプライドは本当に持たねばならないのか? 

ごめんね、と謝れないのは何故なのか? 

悪いと思っていても謝れないのは【どこからくるもの】なのか? 

そこまで甘えられるのか?
 
苦しいし、辛いけれど、そこを見ない限り、伴侶との深くて、信頼を置ける関係性を築くことは難しいかもしれない。 

だけど「ごめんなさい」と謝ることは、必ず自分を救うことになるのだから。

この女性のような切ない思いは、誰にも多かれ少なかれあるはず。

相手はあなたを許してくれている。

でも、感情に溺れすぎると、そこを見失う。
プライドに埋もれすぎると、そこが隠れる。

 
愛しているなら…

「ごめんね」を伝えよう。

もしかすると、
「ありがとう」よりも大切な言葉になる事もあるほどの、
とても大切で、重要なパートナーシップの鍵の言葉。

そしてそれがわかっているから、きちんと伝え合えるという安心と安全な人が生まれる。

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目と目があったとき
「可愛いな。」って言ってもらえるだけで、意味もなく嬉しくなる。


ちょっと照れるけれど
「そやろ?」って偉そぶる。


内心はハトの心臓みたいにトクトクと胸がときめいている。

ハトはオスが羽を膨らませて、メスに一所懸命近寄ってアピールするって知ってた?


笑笑






今朝は雨。


でも歯医者の予約があって。


歩いたら15分くらいなのでいつもマグワイヤーが車で送ってくれる。


今日も雨だし、送ってもらうことに。
 
 
用意ができた私に、


「車回して来てあげるから、ここ(部屋)で待っとき!」


そう言ってくれた彼に私は


「ええよ。(駐車場まで)近いんやから。」と言ってしまっていた。


「雨に濡れるから、(ここに)おり!」


と再度言ってくれたので


「うん!じゃあそうする!」と受け取った。


まだまだ、好意を素直に受け取るのが下手だなぁ。私。


そう思うような、まだまだな私を優しくいたわってくれる彼に、心から感謝しながら歯医者に向かう。


もっと乙女らしく、可愛く


「うん!ありがとう!」て言える私でありたいな。


こんな私でも愛を送ってくれるマグワイヤー、ありがとう。



愛を受け取るアンテナ。大切だね。





今の男性たちは(最近では多くの女性もだけれど)仕事を労働と重ねている人が多い。

 

ライフワークとライスワーク。


よく聞く言葉でもあるけれど

食べるために働くことって実は素晴らしいこと。

 

働くって素晴らしいこと。


人が動くと書いて働く。


動けるから働ける。

寝込んだら働けない。


働けるって健康の証でもある。

 

ただ、心が健康で働けているか?と聞かれると冒頭に書いたように、労働ばかりしすぎて、仕事になっていない人が多いと、どうしても心が疲れて病んでしまう。

 

私にとって仕事ってことは素直に生きるってこと。

よく志に事って書いて志事(しごと)って書く方がおられるけれど、私は仕事が好きだから、その言葉は使わない。


だけど、なぜか仕事が悪いことと捉えて、仕事をしたくないという人も多く見受けられる。


遊んで寝ていたい。

遊ぶように暮らしたい。

 

うん。それはそれでいいんだけれど、実は、仕事をしていても疲れない方法はいくらでもある。


私の亡き父は遊ぶように生きたい人だった。

多分(日本の)結婚生活(制度)というものには向かない生き方をしたい人だった。

 

だけどなんの因果か?家庭を絶対大切にしたい願望が強い母と結婚し、子供を成した。

 

遊びたい。でも、子供と家族のために仕事をしないといけない。


とはいえ、持って生まれていない氣質を生きるって本当に辛いのは、今の私ならわかる。


父は仕事には真面目に行った。

左官職人だったので雨の時は仕事はなかったが、それ以外は朝早くから出かけて行った。

 

お酒が好きで、女性が好きで、遊びが好きな父。

片やお酒も飲めず、人が苦手で、遊びも知らず17歳で結婚した母。

そんな女性と一緒になって、21歳で父親になった遊びたい氣質の男。


正しいも間違いもない。

 

今なら父が、父らしい生き方で人の役に立てる仕事が見つけられたかもしれない。

だけど、当時の(いや、今でもか)男性は、結婚したら女性を養うモノであり、経済力のない男性は評価が低かった。


生きづらかっただろうなあ。

理解されづらかっただろうな。

 


お金を儲けることが上手い人は、選択肢が増えるために、幅の広い人生を歩みやすい...か?

 

いや。そうでもあり、そうでもなしだ。


お金があって、いい学校に出ても、エリート学校で限られた空間の中に育ち、外に出たことがない人が今の日本の政治を担っているじゃないの?

 

要は経済力と人間としての価値はイコールではないということ。

 

でも、今でも多くの人が、お金と、自分や大切な人の価値を比べる傾向が強い。


孫正義さんをすごー!っと思っても、自分ちのお父さんをすごー!って思わないのがいい例だよね。(まあ思わない人もいるけれど、一つの例としてってことで読んでもらえると嬉しいな。)


さて、日本なぜか、仕事が労働にすり替わってしまった。

 

税金に追われ、ローンに追われ、自分をなくして会社に尽くし、家に尽くす。

 

男性たちの悲しい集合意識はいつの時代から強まったのだろう?

 

古代や戦前を私は知らない。

 

でも、今のように国民の多くの人が車を持ち、自分の年収の何倍もする家を買い、所得や消費、自分の健康のために国へ多くの税を払っていたのだろうか?


お金ってなんなんだろう?

仕事ってなんなんだろう? 

男性は、お父ちゃんはなんのために生きているのだろう?

 

女性が本当の女性に目覚め始めると、当然ながら男性も真の男性性に目覚め始める。

 

自分を殺して家や国のために働くことが真の男性性なのだろうか? 

家族を養う経済力が真の男性性なのだろうか? 

 

そもそも、男性ってどんな存在なのだろうか? 

 

女性性を追求して、満たしてもらえ始めた今だからこそ、私は男性にも絶対に幸せでいる選択をしてもらいたい。

 

多くの男性が国のために命を落とし、家族のために戦争に出向いた。

 

延々と続いて来たその歪んだ男性性を解き放つのは、

女性が女性らし今まで働けるようになると、

女性が女性のままで仕事ができるようになると、

男性の解放がはじまりのきっかけになるのではないかと思うのです。


コロナのせいで仕事をなくしたり、仕事が減ったりしている今の社会の中で、男性は男性であり、価値が下がっているわけではない!と声を大にして言いたい。

 

私の父が、生きていてくれるだけでよかったと思うのは

「経済力」でも「家族を守ってくれる」からでもない。


父が父だからなのです。


彼が彼だったから、私の父だったから、それだけで生きていて欲しいのです。

 

そこに経済力・社会性など必要ないのです。


ただ、生きていてくれるだけでいい。

 

でもそのためには、仕事や労働の思い込みを、男性も女性も外さないとお互いが辛くなる...そんな時期にあるように思う。


私は夕日を美しいと思える

自然を美しいと思える伴侶を心から尊敬する。

 

鹿たちと共にいることの不自然さを感じない男性。


これが私の伴侶の氣質。

 

男性も休んでいい。

止まってもいい。

女性に譲ってもいい。

 

そんなことをこの今の時期は教えてくれているような氣がする。